ツール・ド・東北とは

「ツール・ド・東北」は株式会社河北新報社とヤフー株式会社が、東日本大震災の復興支援を目的に2013年から毎年開催しているサイクルイベントです。
第5回目となった「ツール・ド・東北 2017」は9月16日、17日に実施し、全7コースに総勢3,721人のライダーが宮城県三陸沿岸の被災地である3市2町(石巻市、気仙沼市、東松島市、女川町、南三陸町)を駆け抜けました。

未来につなげたいわたしたちの想い

震災当時小学生だった子どもたちは、いま大学生となり次世代へとつなげる活動を行っています。
また津波に巻き込まれながらも奇跡的に生還し、また被災当時の場所に戻ってきた店主の想いとは。
ツール・ド・東北のコースがある被災地宮城で、未来につなげたい想いを聞きました。

震災復興伝承館で話す志野ほのかさん

東北福祉大1年 (石巻市在住)
志野ほのかさん(19歳)

震災当時は小学校6年生。
通っていた東松島市立野蒜(のびる)小学校の体育館に避難し、その約1時間後、津波が押し寄せた。

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大好きだった祖父のために、語り部活動を

 古里が、野蒜が大好き。だからこそ古里の良さや、ここで7年前に起きたことを伝えていきたい……。そんな思いを抱きながら、東松島市出身の志野ほのかさんは語り部としての活動を続けています。

 東日本大震災のその日、志野さんは野蒜小学校の校門近くで大きな揺れに遭い、幼なじみと一緒に小学校の体育館に避難しました。しばらくして誰かの「津波だ」という声を聞いた途端、志野さんはとっさに幼なじみの手を引き階段を伝ってギャラリーに駆け上がり、津波を逃れたのでした。ただ、残念ながら、同市の自宅で志野さんの帰りを待っていた祖父を亡くしてしまいました。

震災復興伝承館で話す志野ほのかさん

 語り部の活動を始めたのは高校生のころ。自分の経験を一人でも多くの人に伝えたい、という気持ちから始めました。最初はうまくできなかったのですが、経験を重ねるにつれ、震災の出来事や複雑だった自分の気持ちが少しずつ整理されてきました。と同時に古里のことを語るうち、これまで以上に大切に思えるようになってきたのです。それからは積極的に語り部の活動を続け、今では全国にたくさんの仲間が増えました。「それもこれも全て祖父のおかげ。これからも感謝と気持ちと野蒜の良いところをもっともっと伝えていきたい」と志野さんは話します。

旧野蒜小学校で話す志野ほのかさん

「防災」についての考え方も変わりました。「難しく考えず、自分の周りの大切な人たちのことを思うこと。そうすれば、この人のために万が一の際の備えをしなければ、と自然に考えるから」。自宅で自分を待っていた祖父のことを思うたびに、このごろ強く思うと言います。

 あれから7年。地元にも震災を知らない子どもたちが多くなってきました。志野さんはそんな子どもたちに対して、こう話すことにしています。「野蒜はとってもいい町。海がきれいで、人はみんな温ったかくて家族みたいだよ」。古里と自分の大切な人たちを思うことが、最大の防災なんだと信じて。

志野ほのかさんのプロフィール写真

志野ほのか(しの ほのか)さん

宮城県東松島市出身。東北福祉大1年。一緒に語り部活動をした同級生たちに会える2019年の成人式を今からとても楽しみにしている。もちろん墓前の祖父にも着物姿を見せてあげるつもりだ。

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女川いのちの石碑の前で話す渡辺滉大さん

東北学院大1年 (石巻市在住)
渡辺滉大さん(19歳)

震災当時は女川町立女川第二小学校6年生。 校庭から総合体育館に避難し、家族も無事だったが、自宅が津波で流された。

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千年先の女川を津波から守るために

「千年後の命を守るために」と刻まれた石碑は高台にある女川中の敷地に建っています。復興が進む女川の町を見下ろすように。

 渡辺滉大さんは東日本大震災を女川二小で経験。実家を流され、家族とともに避難所の体育館で暮らす日々を余儀なくされました。この辛い経験を経て、古里を災害から守りたいという気持ちが強くなりました。

 「いのちの石碑プロジェクト」は渡辺さんら当時の女川中の同級生らでつくる実行委員会が中心となり、町内にある21の浜と同じ数の石碑を建てる計画です。いずれも震災の津波到達点よりも高い場所に設置する活動を続けてきました。活動は授業で地域防災をクラスで考えたのがきっかけ。古里の歴史の中で自分たちに何ができるかをみんなで議論した結果、震災の記録と防災意識を高めてもらうために石碑の建設を決めました。

女川いのちの石碑の前で話す渡辺滉大さん

 設置の資金は全て自分たちで集めました。通常の募金の加えて町にも協力を求め、さらには楽しい修学旅行時間の一部を割きました。東京の企業を手分けしながら一社ずつ説明しながら回り、ついに目標の1千万円を集めたのです。建立する町内の土地交渉も自分たちで行いながら、2013年11月に女川中敷地内に第1号を建立しました。これまで立てた石碑は16。2019年の成人式に最後の21番目の石碑を建てることが今の渡辺さんの目標です。

女川いのちの教科書の表紙と中面のページ

 石碑には津波到達点が示されている他、一首ずつ同級生が詠んだ震災に関する俳句が刻まれています。女川中前の石碑には、こうあります。「夢だけは 壊せなかった 大震災」。ちなみに渡辺さんの夢は、と聞いてみると、「現在大学で学んでいる環境工学を生かして、将来は何らかの形で安心できる女川の街づくりに携わりたい」と話してくれました。

 渡辺さんたちの新たな活動として、現在「女川いのちの教科書」作りに取り組んでいます。中学の副読本として町の津波被害やメカニズムなど、いかに災害から大切な命を守るかをまとめています。現在編集の最終段階で、今後女川はじめ沿岸地区の学校に配布していく予定です。いかに自分と自分の古里を守るか、渡辺さんたちの防災メッセージは確実に地域に届き始めています。

渡辺滉大さんのプロフィール写真

渡辺滉大(わたなべ あきと)さん

宮城県女川町出身。東北学院大1年。「いのちの教科書」は地元女川にとどまらず全国、引いては世界に発信できるような教科書にしたい、という夢を持っている。

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宮城県南三陸町で和食店を営む高橋修さん

宮城県南三陸町 和食店「志のや」店主
高橋修さん(59歳)

店で仕込み作業をしていた時に被災。「ここまでは来ないだろう」と2階に避難したが津波に襲われ、店ごと1キロほど流された。

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巨大津波から奇跡的に生還
絆に支えられ店を再建 人のつながり大切に

 宮城県南三陸町の和食店「志のや」の店主高橋修さん(59)は2011年3月11日、店舗2階の自宅で巨大津波に襲われました。海岸から約2キロも離れた場所です。「何度も津波に遭っている地域ですから、地震イコール津波という発想はありましたが、まさかここまで来るとは思いませんでした。勝手に線引きをしていました」と振り返ります。

 天井まで押し寄せた海水の中でもがきながら、建物ごと内陸へ1キロほども流されました。「人間はこうやって死ぬんだ」。死を覚悟した時、屋根が割れました。そこから何とか脱出し、九死に一生を得たのでした。

 自宅、店舗、家財はもちろん、娘たちの幼いころの写真など全ての宝物を失いましたが、震災から1週間後、近くのがれきの山から木製の店の看板を見つけました。「これはもう一度頑張れということか」。再起を決意した瞬間でした

宮城県南三陸町で和食店を営む高橋修さん

 2012年2月、志のやが建っていた土地を仮設商店街「南三陸さんさん商店街」に提供し、自らも出店しました。「交流の場をつくりたかった」といい、客が気に入った店の食事などを持ち寄るフードコート形式が評判になりました。

 そこで実感したのは、絆のありがたさや大切さでした。「お客さんが楽しそうにしてくれて、ベビーカーを押しながら季節が変わるたびに来てくれる家族もいました。すると店の人たちもだんだん仕事が楽しくなっていって…。親や子を亡くした人たちの和みにも少しはつながったかなと思っています」。

宮城県南三陸町で和食店を営む高橋修さん

 仮設商店街は2017年3月、別の場所で本設商店街として移転開業、高橋さんは7月、仮設商店街の跡地で志のや再建を果たしました。「やっぱり家があった場所で再出発したかった」そうですが、人のつながりの大切さは忘れていません。

 「お客さんや仲間に支えられ、励まされ、ここまで来ました。店も農家も漁師もみんなでこれからも力を合わせていきたい。一つの店、一つの食で町を盛り上げるのは無理ですから」。仲間と知恵を出し合い、新名物の開発にも余念がありません。

志のやの店先では津波を乗り越えた看板が、静かに客を出迎えてくれます。

高橋修さんのプロフィール写真


高橋修(たかはし おさむ)さん

宮城県南三陸町出身。
2001年、同町志津川で和食店「志のや」開業。東日本大震災の津波で店舗兼自宅とともに流されたが奇跡的に生還。仮設の「南三陸さんさん商店街」での営業を経て、2017年7月、震災前と同じ場所に店を再建した。

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想定外の津波被害 減災のキーワードとは

東北大学今村文彦所長の写真

東北大学 災害科学国際研究所
今村文彦所長

今村文彦所長(津波工学専門)に、東日本大震災の津波の特徴や今後発生が想定される南海トラフ地震、都市部の地下街における津波被害などについて伺いました。

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東日本大震災の津波の特徴を教えてください。

規模も大きく、破壊力が極めて甚大な超巨大津波でした。防潮堤などのコンクリート構造物さえも破壊されました。地震と津波は2段階で発生しました。第1段階は宮城県沖地震と同様のパターンで、プレートの境界に沿う形でひずみエネルギーが開放されました。その時点では比較的緩やかな地震や津波だったと想定されますが、第2段階としてプレートの沈み込み帯のごく浅いところで一気に動きが増加して、巨大な地震、津波を起こしました。

2011年3月18日南三陸町志津川地区
公共施設や商店、住宅が立ち並んでいた町中心部が津波にのみ込まれた(写真提供:河北新報社)

津波の怖さは何でしょう。

警報や注意報の高さは危険の判断基準です。ただ津波は重い水の塊です。動き出した時のパワーは計り知れません。ひざ上ほどの50センチの津波でも、人間は動けなくなります。例えるなら津波はダムの放流のようなイメージです。

2011年4月8日東松島市大曲浜地区
津波の巨大なエネルギーは漁船や貨物船を陸地に乗り上げさせた(写真提供:河北新報社)

南海トラフ巨大地震の発生も想定される中、
東日本大震災からどのような教訓を伝えられるでしょうか。

専門家らが「事前復興」と呼ぶ考え方があります。震災では復興計画を全て一から話し合わなければならず、住民も交えた議論の場を設けるだけでも大変でした。事前復興は、大災害が起きたら、新しい学校や病院はどこに作るかといった計画を事前に話し合っておきます。南海トラフの被害が言われている和歌山県や高知県ではすでにそうした議論が始まっています。

海に面した都市部の地下街などで大地震に遭った場合、
津波にはどう対応すればいいのですか。

「津波が発生すると、排水設備を逆流して地下に水が来るので、地下は危険です。ただ、揺れている間は地下は安全だと思うので、揺れが収まったら落ち着いて地上に出るのがいいでしょう。

教訓の伝え方について思うことはありますか。

まず被災地以外の方々には、ぜひ被災地に足を運んで、車ではなく自転車や徒歩で見てほしい。スマホもありますから、震災前の情報とも比較しながら、気付きや学びの機会にしてほしいと思います。

震災遺構は、被災者の感情や保存方法の難しさはありますが、残すべきだと思います。私は東日本大震災の2か月後から、保存の陳情活動を始めました。同じことを繰り返さないために必要です。

ツール・ド・東北のコース写真
津波の被害の爪あとが間近で感じられる

若い世代に期待することは。

みなさん情報収集能力が高く、発想力もある。私たちのような専門家が思いつかないようなアイデアも出てくるはず。災害に備え、どんどん提案してほしいですね。

今村文彦所長のプロフィール写真

東北大学
今村文彦(いまむら ふみひこ)所長

1961年山梨県生まれ。東北大大学院工学研究科博士課程修了。同大大学院工学研究科教授、同大災害制御研究所研究センター長などを経て、2014年4月から現職。専門は津波工学。56歳。

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自転車の速度で感じたツール・ド・東北の復興

ツール・ド・東北を走った道端カレンさんの5年間

インタビューに応える道端カレンさん

モデル
道端カレンさん

ファッションモデルやタレント、トライアスリートとしても活躍する道端カレンさん。
ツール・ド・東北には、2013年の初回から参加し、ライダーと一緒にさまざまなコースに挑戦。復興する東北の様子を見守り続けてきたカレンさんにツール・ド・東北の魅力について、語ってもらいました。

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沿道からの応援があったかい! 笑顔に励まされます

エイドステーションでメッセージを読む道端カレンさん

初めて参加したとき、地元の方々の元気な声援と明るい笑顔が、すごく印象的でした。
エイドステーションでは、地元の方が「さんまのすり身が入った女川汁だよ」とすすめてくれたり、沿道にいる子どもや年配の方が「がんばれ~!」と応援してくれたり。小学生が書いてくれたメッセージ付きのおにぎりには、同じ年頃の息子をもつ母として、キュンとしましたね。

自転車のペースで、東北の雄大な自然を肌で感じてほしい

2014年には、石巻と気仙沼を往復する200キロ超のロングライドに初挑戦しました。歩いて行けない距離でも自転車なら回れるし、車のスピードでは見落としてしまいそうな、土地の香りまで感じられるのも自転車ならではの魅力ですね。東北の雄大な自然がつくるアップダウンを乗り越えた先に、キラキラ輝く海が見えたときの爽快感も忘れられません。

海岸線を走る道端カレンさん

東北は海の幸の宝庫! 充実したエイドも魅力

インタビューに応える道端カレンさん

ツール・ド・東北の大きな特徴は、なんといっても東北の美味しいごはん。フカヒレスープやホタテ焼き、海鮮たっぷりのシーフードカレーなど、採れたての海の幸がメインです。毎年走り終わるころには、お腹いっぱい(笑)。エイドでは、ボランティアの方と一緒に記念写真を撮ったり、地元の人と触れあえたりするのも楽しいひとときです。

語り部から聞いた震災の体験を身近な人に伝えたい

2016年からは、休憩ポイントで被災の体験が聞ける語り部ステーションも。生の声を聞くことで、震災をより身近に感じ、心に深く残るものがありました。息子をはじめ、トライアスロン仲間や友人に、そこで受け取った思いを伝えています。地元の方々には、逆に元気づけられることの方が多いですが、今後も自転車に乗ることで、復興支援に関われたら嬉しいです。

インタビューに応える道端カレンさん
道端カレンさんのプロフィール写真

モデル
道端カレンさん

1979年アルゼンチン生まれ。福井県出身。 母親が日本、父親がアルゼンチン国籍を持つスペイン人&イタリア人のハーフ。 道端3姉妹の長女で、次女ジェシカ、三女のアンジェリカとともに多くの女性から支持を得ている。

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サイクルツーリズムを通じてひろげたい東北の魅力

東北の絶景を見ながらサイクリングしている写真

サイクルツーリズムへの取り組み

ツール・ド・東北は、2016年に「牡鹿半島チャレンジグループライド」、2017年に「奥松島グループライド&ハイキング」という2つのコースを新設し、「サイクルツーリズムの推進」を目標に掲げました。

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株式会社河北新報社とヤフー株式会社は、復興支援を目的に、2013年より宮城県の太平洋沿岸にてサイクリングイベント「ツール・ド・東北」を開催しております。
共催自治体との連携を深めこれまで規模拡大に努めてきました。特に、会期を2日間とした2015年以降、「牡鹿半島チャレンジグループライド」「奥松島グループライド&ハイキング」という2つのコースを新設し、「サイクルツーリズムの推進」を目標に掲げました。

この2つのグループライドは、10人前後でグループを編成し、ツアー方式で移動します。牡鹿半島一周のコースでは、金華山が一望できる絶景を、奥松島の大高森では、松島湾に浮かぶ島々の大パノラマを満喫することができます。途中、郷土自慢の「食」のほか、語り部から震災当時の状況や復興の現状を聞くこともでき、満足度の高いサイクルツーリズムのモデルコースとなっております。

また、本年度は、事業収益などを原資とした「ツール・ド・東北基金」を活用し、仙台空港のサイクリングポートの整備費用のほか、共催自治体の観光関連団体に自転車とラックなどを購入するための費用を助成しました。ハード、ソフト両面でサイクルツーリズムの環境が整っていくことを願っております。
2017年5月に自転車活用推進法が施行されたのを受け、今春、国の自転車活用推進計画が策定されます。こうした時代の潮流をも見極めながら、被災地の観光振興と交流人口の拡大を視野に入れ、サイクルツーリズムの後押し役を果たしていきます。

村井嘉浩宮城県知事のプロフィール写真

宮城県知事
村井 嘉浩(むらい よしひろ)

 東日本大震災から7年の月日が経ちました。甚大な被害を受けた被災地は、全国の皆様からのご支援と励ましの言葉に支えられながら、日々、復興に向けて歩みを進めています。
ツール・ド・東北は、リアス式海岸が織りなす雄大な自然の中、起伏に富んだコースを疾走しながら、「被災地のいま」をご覧いただけるサイクルイベントです。是非、宮城に来て復興の様子を肌で感じてください。東北ならではの温かいおもてなしの心で、皆様をお迎えいたします。

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東日本大震災

3月11日午後2時46分、宮城県沖約130キロを震源とした地震が発生。
震度7、マグニチュード(M)9.0と日本の観測史上最大規模で、東日本大震災と名付けられました。死者・行方不明者は大津波に襲われた岩手、宮城、福島をはじめとする太平洋沿岸部を中心に約1万8000人を数えました。

震災に伴い東京電力福島第1原発では全電源が失われて原子炉が冷却できなくなりメルトダウン(炉心溶融)が起きました。

また首都圏では交通機関が不通となり、帰宅困難者が発生しました。
避難者は2018年1月現在、全国で約7万5000人。

震災と河北新報社

震災当日の河北新報の号外

仙台市に本社を置く河北新報社は東日本大震災で本社社屋などを被災しましたが、当日の号外、翌日付朝刊を発行し、これまで地道な検証報道を続けるとともに、「再生へ 心ひとつに」を合言葉に、復興状況をきめ細かく発信しています。また、「いのちと地域を守る」キャンペーンの一環として、全国各地で巡回ワークショップ「むすび塾」を展開、震災の風化の防止と防災、減災の教育・啓発活動等にも力を入れています。

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